Luciana Janaqui
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本当の事も戯言も、同じほどの価値があり、同じほどの無価値がある。と心底私は思っている。
しかし多くの他人にとってどうやらそうではないらしい?と気づいたのは大人になってからでした。
それで少し慌ててしまい、自分の考えの正当性を求め、それらしい仮説を立ててみました。
つまり、こういうことではないだろうかと・・・

すべての出来事は、時空を超えて繰り返し経験される。という逃れられない構造の中に、私たちは生きている。
今日までこの私に起こっていない特定の出来事も、他人には起こっているかもしれない。
私にも明日、起こるかもしれない。
もしもそれを私が死ぬまでに確認できなくても、そのことの内容を私は知っている。
なぜなら、その出来事が持つのと同じような意味を持つ出来事は無数に存在し、そのうちのどれか違うバージョンを私は既に経験しているからである。
この構造によって私たちは集団的なメモリーに強制参加させられ、個人のメモリーはその干渉から逃れられません。

様々な出来事が繋ぎ合わさることで人生は構築され、各々の個人史の固有性は無数のそれら茶番劇の組み合わせによってのみ担保されている。
結局物語は有限の型に回収されることになる。

物語の詳細は代替可能なのです。
そしてきっと私を含むあらゆる登場人物も代替可能である。
だとすれば、語り部は誰でもいいのでは?
となると、私の発する戯言の中にも誰かにとっての真実みを認めざるを得ない、それにはつまり本当の事と同等の価値がある。

物語生成の繰り返しや偽造の過程で生成されるバグやズレ、脳内のメモリに蓄積されるキャッシュが引き起こす悪影響。
これらが私たちの日常生活にどのように作用しているのか、私は非常に興味を持っています。
それを可視化するため、さまざまな実験を行い、その結果を展覧会という形でたまに発表しています。

2024年9月13日
ブリュッセルのバー Le Pantin にて Zinne bir を呑みながら

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